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末房長明さんの第3歌集「都府楼」(平成17年、短歌研究社・刊)を読みおえる。昨年(平成19年)10月9日のこのブログで、彼の第2歌集「遠賀川」を取上げたおり、定年後の彼の短歌を読みたいと書いたが、手許にその第3歌集があることを見つけたもの。
のびのびとした作品が多いようだ。彼は次の仕事に就いているが、時間と心に余裕があるのか、海外旅行詠や登山詠も織り込まれている。
終止形で「恥づる」とか、連体形で「見える」とか使われているのは、気になる点である。
愛妻もののほほえましくもある2首を引いておく。
竜胆の群れ咲く山の径を来てブッセの詩句を口ずさむ妻
向日葵の花四五本を抱きかかへ朝の市場を出でてくる妻
年末に「日本の古本屋」を通して大阪府の古書店「天牛書店」に註文していた、「吉原幸子全詩」2冊揃いが届いた。僕はこれまで1篇も彼女の詩を読んだことがない。それは彼女が、戦後詩をリードした「荒地」グループでもなく、それに続く「櫂」グループでもなく、戦前から続く(草野心平が中心の)「暦程」グループに所属する詩人だったからだろう。
困る点を3つ。この全詩集は彼女の生前に出たもので、その後も亡くなるまでに詩集が出版された可能性があること。これは僕自身の不明による。次は、Ⅱの帯の一部が欠損していること。この全詩集の「詳細」には「帯いたみ」とかは書かれていたが、欠けているとは書かれていなかった。もうひとつ、帯に「著者サイン入り」と書かれてあるが、それは自筆ではなく明らかに印刷である。詩関係の出版社の最大手(自費出版関係を除く)である思潮社がこんな事をしてはいけない。
稲川方人詩集「聖-歌章」(思潮社刊)を読みおえる。
今さら革命とか階級とか書かれても、こちらは困る。
それに、言いたいことを暗号的に雅語に置き換えるだけに読める技法にも疑問がある。すべての修辞は、思いをよりよく伝えるためにあるから。
今日4日は仕事始めだった。昨日まで年末年始の6日間の休暇に、外出は近所のローソンに煙草、缶コーヒーを買いに行き、2日に通夜、3日に近所(歩いて10分くらい)の本家に年始に行ったほか、ずっと家に籠っていた。来客もなかった。
その6日間の成果といえば、蔵書文庫本のデータベースに打ち込みを続け、623件に至った事だろう。空いた時間に、せっせと打ち込んだ。ほかに稲川方人(イナガワ・マサト)詩集「聖-歌章」を難渋しながら読んで、詩集の半ばに至った事もある。
「日本の古本屋」を通して大分県の古本屋「大野書店」に註文していた、朝日新聞社「日本古典全書 小林一茶集」が届いた。俳句1300余句、文章38篇、「父の終焉日記」「おらが春」、書簡14通、年譜などを収めた本。僕は岩波文庫「七番日記」2冊も持っているので、併せて読める日が楽しみだ。
この「日本古典全書」シリーズは編集が良くて、注釈などのレベルも僕に合っているようで、日本古典では好きな本だ。
前説明をしておくと、僕は今の仕事に就く前に、会計事務所(税理士事務所)に3年半ほど勤めた事があって、日商簿記2級の免状を持っている。それを活かして、11年くらい前から、小遣い帳の収支に勘定科目をつけ、銀行通帳からの銀行科目と併せ、総勘定元帳を作り、1月毎に試算表を作成して収支をチェックしている。けちくさいと思われるかもしれないが、乏しい小遣いの中で文学活動を続けるには、これくらいのチェックは必要である。
そこで昨年1年の小遣いの決算をすると、1万円余りの黒字であった。つまり収入した金額のすべてを支出してしまった訳である。支出の半分近くを嗜好品代(僕の場合は煙草、コーヒー)が占めているので、今年は抑えたい。本代は雑誌を含めて、12万円余りであった。以前のある年には、本代に36万円余り使ったから、それに比べれば3分の1である。文学活動に費用を使っているからだろう。1年12万円余りの本代がアマチュアながら文学に携わっているものにとって多いか少ないか、他の人に聞いた事がないから、わからない。
この冬にも一人息子が帰省しない(お盆にも帰ってこなかった)ので、妻と二人の年越しである。大晦日の午後6時に斎戒沐浴して(実は風呂湯を浴びただけ)、7時20分より「紅白歌合戦」を観る。9時に早ばやと年越し蕎麦(蕎麦に大根おろしをかけた、おろし蕎麦)を食べる。「紅白」があまりに詰まらないので、9時半に就寝、熟睡して年を越す。朝7時半に目が覚め、お雑煮を食べる。お雑煮は、丸餅、味噌仕立て、蕪と蒲鉾をいれ、花鰹節をかけて食べる、簡素なもの。初詣に出かける予定だったが、積雪のため中止。もともと二人とも信心がないのである。
拙作1首
新年の空より鳶の声ひびき部屋ごもる我の気をさやけくす
(新作)
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