28日金曜日の夕方より、パソコンのネットがつながらなかった。
今日の日曜日の午前に、電器修繕専門店の人に自宅まで来てもらって、ようやく回復した。
ここ3日間のおもな事を、以下に列挙する。
角川書店「増補 現代俳句大系」(全15巻)の第1巻(昭和56年・刊)より、9番めの句集、富安風生「草の花」を読みおえる。
原著は、昭和8年、龍星閣・刊。
当時の俳壇は、新しさを求める俳風が強かったが、彼は「ホトトギス」に拠って、中道を進んだとされる。
女性になり代わって吟じた句が散見される。当時の社会情勢に関わるのだろうが、どう評価すべきか、わからない。
言葉や情緒にやや流された(流して吟じた)句がある。
以下に5句を引く。
日向ぼこ笑ひくづれて散りにけり
夕空のなごみわたれる案山子かな
羽子板や母が贔屓の歌右衛門
麦稈の山の上とぶ蛍かな
走り出て紫蘇一二枚欠きにけり
京都府に在住の歌人・小山富紀子さん(「コスモス」選者、「棧橋」同人)が、歌集「紅さし指」を送って下さった。
「祇園春宵」に次ぐ、彼女の第2歌集。
2010年5月、柊書房・刊。
京言葉を用いた作品には、京の人情を、京都を描いた作品には、古都の風情を感じる。
京都に詳しくない僕には、異国情緒めくとまで感じられる。
京都に生まれ育った彼女には、日常のことなのだろうけれども。
「コスモス」2010-6月号に、久保田智栄子さんの懇切丁寧な評が載っている。
以下に、7首を引く。
ホケキョ(あら)、ホテチョ(うふふふ)ホーホケキョうぐひす鳴けり(お気張りやっしゃ)
せりなづなごぎやうはこべら君すでに仏の座なりさびしみて摘む
雪降れるまへのしづけさ雪降りしのちのしづけさ聞きわけてひとり
なんもかもどうでもええわとなるやうな暑き日続く京都盆地に
花びらが舞ひ込むやうに一力ののれんをくぐる芸妓、舞妓ら
神と祖迎ふるための門松を値切りて買はむこれも吉例
銚子持つ手つきなかなか乙にして三人官女はいけるくちらし
DVDセット「ユネスコ世界遺産」より、5巻めの「仏教遺跡・建造物」を観おえる。
インド「アジャンタ石窟群」、インドネシア「ボロブドゥル寺院遺跡群」、カンボジア「アンコール」、中国「莫高窟」、日本「古都京都の文化財」の5編で、動画部分で55分。
「ボロブドゥル寺院遺跡群」や「アンコール」の遺跡は、庶民の宗教心というより、時の王の強大な権力を表わしている。
宗教の名の下に狩り出された、大衆の労力を思う。
それと思われるのは、大きな繁栄を誇った文明も、滅びる事がある、ということである。
さきの2つの遺跡も放棄されて幾世紀、偶然に発見されるまで、人々から忘れられていた。
戦後に繁栄を続けてきた日本も、危ないものである。
土曜日の今日、正午よりF市内の某カルチュアセンターの1室で、「詩の研究会」5月例会が持たれた。
メンバーは、詩誌「群青」の同人4名(僕を含め)。
テキストは、こぐま星座さんが用意してきた、「哲学」と題する要旨4ページと、「主要哲学者の簡略関係図」と題するコピー2ページ。
こぐま星座さんの弁によると、詩作にも哲学の理解は必要だし、他グループと論争になった(?)時、理論武装というのではないけれど(ここはサスケの弁)、理論的考え方が必要になる、という。
こぐま星座さんのレクチュアは、「哲学とはどういう学か」から始まって、世界最初の哲学者・タレスより、構造主義に至るまでの、おもな哲学者とその内容について簡略に述べるものだった。
質問や補論や、茶々(これは僕)が入って、熱心に楽しく学んだ。
午後3時に散会した。
集英社文庫、昭和55年2刷。
この文庫本には、「水中花」「犬の関係」「冬の陰画」「蝕の光景」の、4つの短編小説を収める。
巻頭の「水中花」は、兵士経験(それも敗兵である)のある兄と、戦後派の「私」との軋轢を振り返りながら、死の床の兄を看取る物語である。
大人になった兄弟には、幼年時の親しみが引っ込み、世間的な競争があるだろう。
しかも経験的に世代差があれば、なおさらのこと。
「蝕の光景」は、敗戦後に戦時教育の責任をとって学園長を辞任した父、学園民主化運動のなかで学園長を辞任した母、性的にはだらしないが企業内で有能な弟、性的な機会で自制する兄(主人公)の、一見上流な家族の、危ういバランスを描いている。
田久保英夫の小説は、古本界にあるけれど、文庫化されたものが少なくて困る。
「BOOK OFF 米松店」へ行き、文庫本3冊(小説)と、新書1冊(講演集)を買ったので、以下に列挙する。
「アッシュベイビー」は、金原ひとみが「蛇にピアス」で第130回芥川賞を受賞したあとの、第1作。
「蝶の皮膚の下」は、河出文芸文庫の目録を見るたび、惹かれた作品。
新書は、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した前後の、9講演を集めた本である。
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