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花神社「石原吉郎全詩集」(1976年・刊)より、4番めの「水準原点」を読みおえる。
原著は、1972年、サンリオ出版・刊。
石原吉郎は、シベリア抑留を体験する事に由って、詩人となった。
戦時日本の、シベリア抑留の、戦後日本の、倫理を問い続けて、人間的であった。
彼のその後の詩と、彼の散文を読んでいない(彼の全3巻の全集に含まれる)ので、その心の経緯を僕は語れない。
以下に、彼の短めの詩を1編、丸ごと紹介する。
右側の葬列石原吉郎
その右側の葬列のためひたすらに その
ひだりがある
ひだりへ流れる
布の蒼白がある
蒼白のための
わずかな紅(くれない)がある
紅を点ずる
さいごの仕草がある
仕草をおさえる
おしころした手がある
その手ではじまる
葬列の右側がある
本文とは無関係。
昭和50年8月、柏葉書院・刊。
箱、本体にビニールカバー、口絵1枚、宮柊二氏・題簽。
昭和32年~48年に、「コスモス」へ発表した作品より、田谷鋭氏・選の367首を収める。
彼女は「コスモス短歌会」F支部の草分けらしく、実弟の現・支部長よりエピソードを伺う事がある。
彼女は医師と結婚しひとり息子を得るが、彼女25歳の時に夫が結核で逝き、彼女は教壇に復帰、しかも彼女も結核と闘病する事態となった。
彼女のひとり息子が婚約して、親の責任の大半を終えたと感じ、歌集出版の運びとなった。
僕がF支部歌会に参加した平成6年には、もういらっしゃらなかった(昭和56年に亡くなられた)。
以下に7首を引く。
費えせぬ一日なりしを喜べる心もあはれひとり夕餉す
レモン削ぐ手許を友の褒めくれき長き独りに馴れてわがする
わが編みし黄のネクタイを翻し樟の木下を夫かへり来ぬ
来む世にもをみなと生れ添ひたしと言ふに臨終(いまは)の夫頷きし
手放しに歔(な)くも覚えつ床に嗅ぐコテイ香水は亡夫がくれし
部屋隅に吹き寄せられし花びらも吸はせつつ押す掃除機重し
古毛糸編みつつテレビ見るわれの独り笑ひてやがて寂しき
集英社文庫、1998年2刷。
購入は、2010年9月2日の記事、「文庫本2冊」で、「BOOK OFF 米松店」で買った、とある。
2年余り待たせてしまった。
また彼は詩人であり(思潮社・現代詩文庫「三木卓詩集」の読了は、2011年5月7日の記事にあり)、しかしいわゆる詩人の小説のように、文章に凝り過ぎる事はない。
この小説は、男が女と出会い、性的に溺れて行くうちに、以前の恋人を捨て、老母を捨て、離婚した妹を捨て、会社を捨て、東京での生活を捨て、叔父を頼って北海道で暮らす事になる。
ある時代の、ある感性の世代なら、ありうるストーリーとして読み、キャッチコピーにあるほど際どい話とは感じなかった。
日本エッセイスト・クラブ編「’97年版ベスト・エッセイ集 司馬サンの大阪弁」を読みおえる。
文春文庫、2000年・刊。
無職・主婦から、作家、大学教授に至る人の、61編を載せる。
「’〇〇年版」とは、その年の前年に紙誌に発表されたエッセイより選ばれた、という事で、僕は当年と思って勘違いな感想を書いた巻もあった。
作家・高井有一(1932~)の「時代遅れ」は、パソコンどころかワープロさえも使わない、自負の弁を述べている。もっともこのエッセイで僕は知ったのだが、彼は旧かなを用いている。それでは、ワープロ、パソコンで文章を書くのは、大変だろう。
作家・佐江衆一(1934~)は「老いの坂道」で、88歳の母を見送り、98歳になる父の介護をしていると書く。還暦の時にあと5年間の計画を立て、ほぼ実現できそうで、65歳にはまた5年間計画をたてる、と至ってお元気である。
僕は両作家の小説を1冊も読んでいないが、蔵書にはあるので、是非読んでみたい。
花神社「石原吉郎全詩集」(1976年・刊)より、3冊めの「斧の思想」を読みおえる。
彼は「残り火・1」の冒頭「そのひとところだけ/ふみ消しておけ/そういう/ゆるしかたもある」と書いたが、モチーフであろうシベリア抑留が「許される」事ではなかった。ソ連が崩壊し、その理念も崩壊した。
表題作の「斧の思想」では、「森が信じた思想を/斧もまた信じた/斧の刃をわたる/風もまた信じた」と語る。何にでも哲学はある。「斧の思想」が、シベリヤでの森林伐採使役を合理化しようとするものなら、のちの世代の僕らは、否定し得る。
「背後」では、「打つものと/打たれるものが向きあうとき/左右は明確に/逆転する/わかったな それが/敵であるための必要にして/十分な条件だ」と書いて、敵対の原型を描いた。
彼は詩を書き、許す事に拠って、許されたのだろうか、ソ連崩壊も知らずに。
本文とは無関係。
新しいコンパクト・デジタルカメラを、Amazonより買った。
「PENTAX OptioVS20」である。1600万画素、光学20倍ズーム、1センチ・マクロなど、高機能である。付属品等を含めて、1万2千円くらいの買い物だった。
写真は、左側奥より、カメラ(ストラップ、メモリ、バッテリー、装着)、USBコード、予備バッテリー2個。右側奥より、ケース、ソフトCD(未導入)である。バッテリー充電器を入れる事を忘れた。
今年3月5日の記事で、「週刊アスキー」を取り上げた時、「小型・軽量、高機能、廉価な、ミラーレス1眼カメラの出現を信じる」と書いた。ミラーレス1眼ではないが、ほぼその願望を満たしてくれる。コンテストに出すのではないから。
昨日の忘年歌会の写真は、このカメラで(700万画素で)撮ったものである。
しかしこのカメラには、本などを撮って、画面一杯の長方形にトリミング・修整するモードが無い。本・冊子を撮る時は、これまでのカメラを使わねばならない。
明日、旧いカメラ用の、バッテリーとメモリーを買う予定である。
角川書店「増補 現代俳句大系」第5巻(昭和56年・刊)より、9番目の句集、山口誓子「激浪」を読みおえる。
この句集は、昭和19年11月に青磁社で活字に組まれたが、世に出なかった。その貴重な1冊を某氏が所蔵し、ここに収められた。
昭和21年7月、削除・追加等を加えて、青磁社から実際に刊行された。
この巻の句集では、川田順の序歌4首、1,254句、編集後記、等を収める。
前回の9月26日、中村汀女「汀女句集」より、ずいぶん月日が経ったが、この句集がこの第5巻の難関だったからである。多くの戦争俳句を含み、後記でも激越である。しかも「誓子俳句のピーク」(平畑静塔)などと、のちに高く評価されている。
書く事は、恐ろしい事である。
以下に5句を引く。
牡丹見るこの驕奢のみ許さしめ
崖攀ぢて蟹いつまでも砂こぼす
蜥蜴出て走りぬ曝書たけなはに
蟷螂に既にあらしの先迫る
海の筋いづれも秋の祭の灯
本文とは無関係。
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