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沖積舎「日野草城全句集」(1996年・刊)より、5番めの句集、「第五句集(資料)」を読みおえる。617句。
今月8日の記事(←リンクしてある)で紹介した、「転轍手」に続く句集である。
ただしこの時期の句集は未刊であったので、全句集の編者・室生幸太郎(草城の娘婿)が、当時の句文集、俳誌などより、丹念に集めて編集した句集である。
三省堂「現代俳句大事典」(2005年・刊)の「京大俳句事件(1940年)」の項目では、「旗艦」(日野草城主宰)は転向を表明して弾圧を免れた、とある。
日野草城が戦争吟を煽ったようにも読めるが、全句集の年譜に拠ると、1940年より次第に俳壇より遠ざかり、敗戦まで沈黙した。
以下に5句を引く。
うつばりも柱も呻き真夜の地震(なゐ)
支店長東西南北より来る
月を視しひとのまなざしわれに来ぬ
大原やしづかに曇る花とわれ
七月の浪を見てゐし眼を閉づる
ダウンロード・フォト集より、野の花の1枚。
福井県詩人懇話会より、「年刊 詩集ふくい2013 第29集」が届く。
題名通り、福井県在住者を主とする、年刊アンソロジー詩集で、今回は58名66編の掲載である。
僕はソネット「忙しい昼休み」を寄せた。
ただし僕のアメブロ「新サスケと短歌と詩」の今年5月18日の記事(←リンクしてある)に既発表である。
この詩集を年1回の晴れ舞台と張り切る人、同人詩誌等に属していなくてここだけが創作詩の発表の場の人もいるようだ。
僕は2つの詩誌に属しており、ネットに創作を発表する事もできるので、「詩集ふくい」への発表は、お付き合い程度にしたい。
新しい詩人、寡作な重鎮の発表もあって、心惹かれながら読んだのだけれども。
兵庫県・在住の詩人をおもな同人とするが、関西在住の方のほか、埼玉県、和歌山県に在住の方もいる。誌末の名簿に拠ると、同人30名、寄稿者2名である。
隔月刊で、粘り強い歩みを続けている。
目次の題名を見ると、キャッチーな題が多い。「カワラヒワが」「今を編みながら」「夕焼けいろの小ガニ」「ドーナツ考」「パズル」「相対性理論」等々。
2020年の東京オリンピック開催決定に触発されたのか、1964年東京オリンピックに触れる、T・和美さんの「十四歳」、M・真由美さんの「阪南横丁」がある。僕は田舎の少年で、建設ラッシュなど知らなかった。
F・優子さんの「夢の証明」が、夢の感覚をリアルに描いている。最後の5行を引く。
夢の証明
F・優子
(前略)
たぶん わたしたちが生きていくために
殺された感情や言葉の死骸が
昼間閉ざされた夢の通路に転がっていて
夜になると たったひとりの観客のために
淋しいショーを始めるのだろう
僕のアメブロ「新サスケと短歌と詩」の、2012年10月31日の記事(←リンクしてある)にソネット「渋る」で取り上げた題材である。
1冊に2歌集ずつ完本で入っている、お買い得の本だが、感性が買うことを渋る、と書いた。
1ページ2段、1首2行書き、活字は小さいが、致し方ない。
Amazonのページに「在庫1冊あります」「ご注文はお早めに」のように書いてあって、焦りもしたのだが、あとのページで「入荷予定あり」とあって、「煽るなよ」と思った事だった。
小池光は僕より3歳年上で、大学研究科を卒業し、就職・結婚して、外面上は順調に生活して来たのだった。
兵庫県・在住の詩人、S・陽子さんよりお便りを添えて、同人詩誌「アリゼ」第157号が送られて来た。忝い事である。
写真集「日本の祭り」シリーズより、「6 近畿Ⅱ」を見おえる。
1983年、講談社・刊。
今月7日の記事(←リンクしてある)で紹介した、「5 近畿Ⅰ」に継ぐ本である。
この本では、三重県、和歌山県、大阪府、兵庫県の、4府県の祭りが取り上げられる。
大阪府の、住吉大社「住吉の御田(おんだ)」、杭全(くまた)神社「御田(おんだ)」では、田植えに種々の芸能が奉納される。
三重県各地では、「カンコ踊り」と呼んで、腹部に横付けした太鼓を打ちながら踊る、祭りがある。
兵庫県の上鴨川・住吉神社の秋祭りで催される田楽・猿楽は、世阿弥以前の能をしのばせる神事とされる。
僕が見ても奇異な日本の祭りを、外国人が見たなら、どんなに珍しく思うだろうか、と思いを馳せる。
文春文庫、2011年・刊。
今年2月25日の記事(←リンクしてある)で、「’07年版 ネクタイと江戸前」を紹介し、しばらくの休眠に入って以来の、再開である。
長い不況の中、諦めムードなのか、有名無名の人々が、思い思いの事を綴っている。
塚本哲也「思い出は生きる力」、永六輔「妻への手紙を書き続けて」が、老妻に先立たれた男の恋々を描いて哀れである。
「’09年版」の古本が、安く出ていたら、買おうと思っている。
2005年、青磁社・刊。
彼女は当時、「未来」会員、米田律子の選を受けている。
「未来」では短歌の芸術性を求めるようだけれども、うまくゆかないと奇抜さになる。
「花」とは奇抜さでも豪華さでもない、と今の僕は思う。
僕が思う「花」とは、水彩画(実物どころか、写真集さえ多くは、見ていないが)の鮮やかさを、イメージする。
この歌集には、多くの優れた生活詠もある。
以下に7首を引く。
椅子持ちて空気うすしと家内をさまよう姑よ肺気腫なれば
嫁がざる娘と二人いる平穏をかりそめごとと知りつつ夜半に
香りなき料理楽しむと言いし母テレビのまえに笑うははるけし
使い捨てカイロ敷き詰め避難所に寒夜の暖をとりいると聞く
廃屋となれど故郷父母の起き伏す気配 井戸水温し
幼子を三人連れたる若き日のわがかなしみを今娘(こ)がもたむ
先逝きし子は昼月に似るとあり亡き母の記にこころさわだつ
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