広部英一・単行詩集未収録詩篇(4)
思潮社「広部英一全詩集」(2013年・刊)より、単行詩集未収録詩篇(4)として、「光は万遍に」(1983年)~「水仙」(1992年)の、36編を読みおえる。
先月30日の記事(←リンクしてある)、同(3)に継ぐ。
「光り」「光る」という語が目につく。宗教的なものではないだろう。
生への意欲と、詩人の純粋さを守るため、ひたすら美による救済を願ったようだ。
思潮社「広部英一全詩集」(2013年・刊)より、単行詩集未収録詩篇(4)として、「光は万遍に」(1983年)~「水仙」(1992年)の、36編を読みおえる。
先月30日の記事(←リンクしてある)、同(3)に継ぐ。
「光り」「光る」という語が目につく。宗教的なものではないだろう。
生への意欲と、詩人の純粋さを守るため、ひたすら美による救済を願ったようだ。
浄土真宗の僧侶、釈誓道さんより、個人誌「本願海」No.11を頂いた。
彼は迷いや卑下のない、信仰を得て、救われている。
しかし詩編4編の内の「コンドーム・サバエに住む妄想的僧侶の使い捨ての唄」に、「その人は/同じ使い捨てでも、/ありがとう、ありがとうと使われて、/ありがとうと捨てられる/そういう生き方が/好ましい、と説いた。」とあるように、権力・資本の庶民操作に宗教が仲立ちした、という疑いが僕からなくならない。
56ページにわたる「断簡集(二十一)」は彼の信仰告白なので、ここでは立ち入らない。
また詩人・作家・評論家の定道明さんより、評論集「中野重治近景」を頂いた。彼は、ウィキペディアの「中野重治」項に、伝記研究として3冊の著書が載る人である。(僕が定さんと呼ぶのは、彼から数冊の詩集を頂いているからである)。
その「あとがき」で彼は、60年安保の挫折後、中野重治の文章に救われる思いがしたように(これは僕の言い直しである)書いている。僕は中野重治の詩と小説を少し読んだが、そういう思いをしていないので、地元の作家ながら、全集を読もうなどと思わない。頼りない交際である。
写真集「日本の原始美術」(全10巻)より、第3巻「弥生土器」を見おえる。
講談社、1979年・刊。函、帯。
今月12日の記事(←リンクしてある)、「縄文土器 2」に続く。
カラー写真、101枚。総78ページ。
弥生時代は、稲作、金属器の始まった時代であり、土器は食料を貯蔵する壺、煮炊きする甕、盛り付ける鉢や高坏など、農民の土器が用いられた。
丹塗り磨研(にぬりまけん)と呼ばれる、赤い土器が美しい。酸化鉄を用いたという。
回転台使用の技術も進んだという。文様も多様となっている。
結社歌誌「コスモス」2014年9月号が、8月14日に届いた。
盂蘭盆休み前に発送するらしく、9月号は毎年、早目に届く。いつもなら、17日頃に着く。
僕の短歌は、3首が採られた。内容は、アメブロ「新サスケと短歌と詩」(このブログの右サイド下方、「リンク集」にある)の8月16日付け記事に、アップしてある。
今号の「第61回コスモス賞発表」では、若いM・芙季さんが受賞した。
本誌の初めより読み始めて、いつもの所を読みおえた。
「その一集」特選欄までと、「COSMOS集」(「その二集」と「あすなろ集」の特選欄)、「新・扇状地」(2名×15首)、他。
僕が付箋を貼った1首は、「COSMOS集」のK・孝治さんの作品(120ページ下段)である。
ひさかたの強き光に濃き影の出来をり悪はそこより育つ
教育でも、道徳だ、愛国心だと押し付け強制するから、はみ出した者が起こす陰惨な事件が多い。
大和書房「斎藤史全歌集」(1998年5刷)より、「『新風十人』より」を紹介する。
全歌集では、「魚歌」(7月27日に紹介)、「暦年」(8月3日に紹介)に次いで、3番めに収められている。
しかし全歌集の「別冊」で年譜を見ると、順序は違い、「新風十人」(1940年7月(発行?))、「魚歌」(同年・8月刊)、「暦年」(同年・11月刊)となっている。
「新風十人」には、他に佐藤佐太郎、坪野哲久、前川佐美雄らが参加した。八雲書林・刊。
以下に5首を引く。
天皇陛下万歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ
ひびきなくふかく崩れてゆくもののおびただしさをいふこともなし
事もなく一日過ぎしといふべくは縮みゆく冬の日ざしのくらさ
瞋(いか)りたる我のこころのみじめさは冷えたる飯を噛みておもほゆ
手をあげて砕くすべなき思ひにて眼(め)はみひらきて眠るなりけり
(1部、漢字の旧字を、新字に替えてあります)。
リチャード・モリス「宇宙の運命」を読みおえる。副題は「新しい宇宙論」。
講談社ブルーバックス、1991年16刷。
今年7月8日の記事「ホーキング、宇宙を語る」、7月28日の記事「ホーキングの最新宇宙論」につながる読書である。
宇宙は開いているか閉じているか、膨張する宇宙、ビッグバン、ブラックホール、星(銀河)の運命、異星の生命の可能性、等の問題について、提唱者、実験確認者の名前を挙げて論述されている。
物理学は数学をその言語としており、「ゲーデルの証明」によって、ある数学系が矛盾する定理を導く場合がある事、真ではあるが真である事の証明できない命題がなければならない事が示されており、物理学にも限界があるのではないかと、著者は述べている。
僕の読む宇宙論解説書は古いので、僕の取り付ける新しい本を、読んでみたい。
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