桂川幾郎「妻のいない夜」
今月20日に(記事あり)、AUさんに借りた詩集6冊のうちの、1冊を読みおえる。
桂川幾郎(かつらがわ・いくろう)さんの第2詩集、「妻のいない夜」である。
紫陽社、1988年・刊。
彼は岐阜県・在住、僕とほぼ同世代である。
関心の向く所が似ているようで、彼のほうが大人である。
表題作の「妻のいない夜」には、次のフレーズがある。
要するに
妻のいない夜には
私は
私と向い合うしかないということなんでしょうね
僕は、自分と向い合う事を避けて、パソコンに向かっているような思いをする。短かった少年期、無慚だった青年期と向い合っても、しようが無い気がして。
巻末の「短詩篇」のしまいの作、「本音」はショックだった。後半を引く。
君はまだこだわっているのか
(本音で生きられるような幸福な時代は
とっくの昔に終ったんだよ)
僕はそれでも、本音を語り合える、何人かの友人をほしいと思う。
「ぐれぽん」さんへ
『妻のいない夜』に興味をもっていただきありがとうございます。私の詩集が、どんな経路で高田馬場の古書店にたどりついたのでしょうか。せっかく購入していただいたのに、表題作の詩のページだけが破り取られていたとのこと。この詩集が、表題作だけは面白いと『週刊読書人』で紹介されたことがありますが・・・。
残部があります。よろしければ、「下呂のイクロー」で検索していただき、私のブログにメールを下されば、贈呈させていただきます。
投稿: 下呂 | 2012年11月23日 (金) 10:40
ぐれぽんさん、コメントをくださり、ありがとうございます。
桂川さんは、ブログ「忘筌」を運営しています。アドレスは以下の通りです。
http://ameblo.jp/k-ikuro/
投稿: 新サスケ | 2012年11月10日 (土) 18:54
「妻のいない夜」で検索してこちらのページへたどりつきました。
実は学生時代、高田馬場の古本屋でこの詩集を見つけ、タイトルに引かれて即買いました。帰りの電車内で開いてみたら、「妻のいない夜」のページだけが破りとられていて唖然・・。
結婚して一年、わたしのいない夜に夫がどんなことを考えているのかなと思うこのごろです。
投稿: ぐれぽん | 2012年11月10日 (土) 07:33
下呂のイクローさん、コメントを下さり、ありがとうございます。
AUさんから借りた詩集の感想をアップした事を許してくださり、感激です。
これからはもっと、誠実に記事を書かなければ、と思いました。
投稿: 新サスケ | 2012年1月 4日 (水) 18:54
「妻のいない夜」を書いた本人です。ネット上で感想を読ませていただくのは初めてで、感激しています。AUさんから詩集を贈呈していただき、そのお礼に私からも私家版詩集を2冊贈りました。それが、新サスケさんにパスされたのですね。内田樹が「呪いの時代」という書物の中で「どんなふうに使えばみんなが喜ぶだろうという想像をいつもしている人間だけが効果的な贈与を果たすことが出来る。贈り物は受け取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない」と記していますが、私のささやかな贈り物がこうして人から人へと「パス」されていることを知り、感激しています。AUさんに感謝しています。
「妻のいない夜」は、私には珍しくするすると言葉が出てきて、ほとんど書き直しをすることなくできた詩(のようなもの)です。妻が実家に帰っていて、ちょっとさびしい思いを感じながら、書いたことを今も鮮明に思い出します。
「本音」は、今から思い返すといさいさか気負いが勝ち過ぎていると感じられます。誰もが本音と建前を使い分けないとこの世を渡って行くことはできないのですから・・・。
投稿: 下呂のイクロー | 2012年1月 4日 (水) 10:58
二人だった時代が、懐かしいですね。
投稿: 新サスケ | 2011年12月26日 (月) 19:36
本音で生きられる時代はとっくの昔に終わったんだよ。・・・ねぇ。超カッコイイ。惚れちゃうう。
でも、その本音にこだわるのが詩じゃないのかなぁ。・・・わからん。
投稿: レオナルド大ピンチ | 2011年12月26日 (月) 14:08