村野四郎「実在の岸辺」
筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第7詩集「実在の岸辺」を読みおえる。
今月13日の記事(←リンクしてある)、「予感」に継ぐ。
原著は、1952年、創元社・刊。
「わが降誕節」(一)(二)では、自分をキリストになぞらえるようだ。
また血筋の誇りは強く、「ながれる虹」では、「あらゆる存在の/論理の中を/血統の秩序は流れる」と書いた。「鎮魂歌」では、「忘却は あたたかく/虚無は やさしい」と挿んでいる。
詩は万民の幸福を目指すのに、彼は資本家となって(1950年には大きな会社を設立し、専務取締役となった)、殆どの民が不幸になるのを眺め、そのギャップから虚無や嘔吐感が来るのだ。
1951年に「詩学」に載った「新即物主義の展開」(後に「新即物主義の再出発―メモ」として詩論集「今日の詩論」に収録)では、ハイデッガーを盛んに引いて述べている。
しかしハイデッガーは、ナチの初期より深く関わり、ナチ党員であった。
また彼自身、実在主義者、実存主義者と呼ばれる事を拒否した。
僕は3巻の「存在と時間」を読みかけたが、3巻めの時間論が、ベルクソン「創造的進化」を読んだ身には違和感があり、読めなかった経験がある。
ハイデッガーは戦後詩の論拠にならない。
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