講談社「世界の博物館」(全23巻)より、第20巻「インド国立博物館」(1989年・4刷)を見おえる。
同・19巻「シルクロード博物館」は、先の5月22日の記事(←リンクしてある)で、アップした。
インダス文明等の古代文明の遺物が素朴である。
仏教美術の浮き彫り、仏塔が緻密である。ギリシア・ローマ風の仏頭があり、仏伝浮き彫りも細密で、信仰を表わすか。
ヒンドゥー教の神像、ガネーシャ、ヴィシュヌは敬虔であり、シヴァ神系はバラモン教・他の神々と共に、豊満な女性を彫ったものもある。
今に技術の伝わる染織品が美しい。
Amazonに予約注文してあった、総合歌誌「歌壇」2016年7月号が、6月12日(日曜日)に発送通知があり、翌13日に届いた(プライム会員のせいか)。
写真ではハレーションをおこしているが、特集は「破調が短歌にもたらすもの」である。
読みおえたなら、ここで紹介したい。
6月16日に、結社歌誌「コスモス」2016年7月号が届いた。少しずつでも紹介して行きたい。
僕の歌は、もう1つのブログ「新サスケと短歌と詩」の、6月17日の記事(←リンクしてある)にアップしたので、横書きながらご覧ください。
変わらずに本を読む事は好きだけれども、最近は根気がなくなって、詩歌句集でも、分けてここで紹介する場合もある。
それでも文庫本棚より、カバーの左端が日焼けした、大江健三郎「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫、2010年・刊)を読んでみた。文章は意外と読みやすかった。
内容は、ロリータ傾向には興味が持てなかった。クライストの小説(?)「ミヒャエル・コールハウスの運命」を翻案して映画化するプロジェクトがあり、「私」が脚本を担当したが、挫折した。
30年後、そのプロデューサーと女優(共に国際的に活躍した)が、再挑戦として、明治維新前後の2つの一揆を、四国の「私」の郷里で舞台化する。
ここで、6月12日の記事、季刊「ココア共和国」vol.19で、僕が秋亜綺羅さんのエッセイを有意義だ、と書いた事に結びつく。「津波ごっこをして笑える日」で「そろそろ、震災にカーテンコールをさせなければならない、と思うのです」と述べている。
2つの一揆は、60年安保と68年頃の学生運動ではないか。それら2つを演劇化する事で、半世紀経た怨念を、昇華しようとするのではないか。小説は、ほぼ舞台裏ばかりだが、筋書と予行も1部、描かれている。
大江健三郎は小説で、三島由紀夫事件や、オウム真理教事件を、翻案して描いて来たと、僕は思ってもいる。
今回で、このブログの記事更新が、3000回めとなる。
2800回めの更新が、2015年11月27日の記事(←リンクしてある)なので、計算してみるとほぼ日刊である。
以下に要件を記す。
・2007年4月4日、ブログ「サスケの本棚」を開設。
・コメント、629件。
・トラックバック、4件。
・アップした写真、3571枚。
・リンク集内、12件。
・2008年10月初め頃、3カウンター(アクセス・カウンター)設置。
・「人気ブログランキング」(本・書籍 カテゴリ)に参加。
・「日本ブログ村」(読書日記 カテゴリ)に参加。
・使用中のディスク容量、840MB。
これからも宜しくお願い致します。
ながらみ書房「定本 竹山広全歌集」(2014年・刊)より、第3歌集「残響」を読みおえる。
第2歌集「葉桜の丘」は、先の6月1日付けの記事(←リンクしてある)で紹介した。
「残響」は、1990年、雁書館・刊。467首。
この間、生業の印刷所を閉めて(66歳)いる。地域の歌人と交わり、核実験反対の座り込みに参加。
また結社「心の花」や総合歌誌で注目され始める。
悲惨な経験を経て、乏しさ(貧しくはない)と反骨精神は、時にユーモアのある作品を生んだ。
以下に7首を引く。
椅子ふかくかなしみをれば二度三度きし鵯のおちつかず去る
活字一式地金に売りて労働のあとかたもなき空間さむし
髪触るるまで子の墓にうなかぶす妻のうしろに寄りゆきがたし
たたみ十枚干して困憊せるわれに被爆時刻のサイレンひびく
座込みで何が得られると自問して賢くなりし人は去りゆく
灯を消しし窓にをりをりきて触る昭和終焉のこの雨の音
天の橋立股よりのぞき見る妻よ眩暈(めまひ)をおそれわれはせなくに
Kindle本「若山牧水大全」の随筆集「樹木とその葉」より、2回めの紹介をする。
同(1)は、先の6月6日の記事(←リンクしてある)にアップした。
今回に読んだのは、「枯野の旅」より「空想と願望」に至る、7詩編である。
Kindle本をタブレットで読むには、ぱらぱらとはページを繰りにくく、元のページに戻りにくい。詩7編なら、他の紀行文と一緒に紹介しても良かった。
牧水が詩を書いていたとは知らず、生涯に何編の詩を書いたか、全集をもたないのでわからない。
この7編には、57調の文語の詩、散文詩と呼ばれるべきもの、口語自由詩を含む。
心情を素直に述べた詩が多い。初期「創作」や「詩歌時代」では詩も載せたようで、詩への眼はあったようだ。
宮城県・在住の詩人、秋亜綺羅さんが個人詩誌、「ココア共和国」vol.19を送って下さった。
ツイッター上で同号を発行のニュースは流れたが、詩誌「群青」終刊後は送ってもらえないかと思っていたが、思いがけなく同号が届き、ここで紹介するまで日数を経てしまった。
同誌・vol.18は、昨年12月17日付けの記事(←リンクしてある)で紹介した。
招待の中家菜津子さんの詩・短歌「筆箱」、打田峨者んさんの俳句「風の再話――昔むかしのどの昔」は、作品の良さが僕にもわかる。
詩の招待作品が、僕にはわからない。僕が現代日本詩の最前線より遠く長く、離れているせいだろう。
松尾真由美さん「崩れさるもの、巣の渾沌」、橋本シオンさん「デストロイしている」の題名が示しているように、都会の人の心は崩れ、壊れているのだろうか。
秋亜綺羅さんの「凱歌」ほか2編は、2行1連を繰り返しており、定型への志向が読める。彼は否定するけれど、戦後詩の流れを汲むと、僕は思っている。エッセイも有意義である。
先日、県内にお住まいの詩人・川村信治さんより、詩集「幸福の擁護」を頂いた。
直近の詩集として、2015年2月2日の記事(←リンクしてある)で紹介した小詩集、「百年の旅」がある。
2016年4月、能登印刷出版部・刊。
127編を、1編見開き2ページで収める。
ほとんどすべての詩が、1連4行、4連を重ねる16行で1編であり、他はバリエーションである。西洋の詩に範を採っているだろう。
苦難はあっただろうけれど、順調な生を送って、老年に入ろうとする詩人の内外をおもに描いている。
甥を送り、母の看護と看取りがあり、姉を送るなど、身近な死があり、寄り添う夫婦像がある。
豊かな自然に恵まれた生活があり、後期に反原発の政治にも関わって行く。
各編には日付が付され、2002年3月31日より2015年12月に至るが、この詩集の上梓により、彼はこの詩型より脱するとしている。
詩「不完全なるもの」4連より、最後の連を引いて、謝意としたい。
美は不完全の上にあり物語は愚かさを語り
愛は互いの不完全さに触れあう
いとおしいこの生
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