角川書店、平成17年・刊。尾崎左永子の帯文。
彼は「運河の会」「星座の会」所属。
神奈川県在住、学習塾・自営。
歌集は1ページ2首で、余裕がある。
エッセイ2編を付す。
初めはゆるめな印象の作品もあるが、のちに歌が締まってくると、なんだか寂しい気持ちもする。
以下に7首を引く。
応援のわれの姿を一目(ひとめ)見て走る時の間 児(こ)は追い越さる
デジタルの時計に変えたこの朝は出勤までの手順間違う
落武者の影曳(ひ)くごとき男らがひしめき合えり 終バスの中
網を引く声の消えたる夕暮れに波立ち上がる九十九里浜
コロイドの溶液満てるガラス器に太陽光の反射が眩(まぶ)し
跳躍のかたちを空に残しては敗者は順にフィールドを去る
つややかに光るトマトが食膳にあるを惜しみて最後に食す
「永井陽子全歌集」より、初めの句歌集「葦牙(あしかび)」を読みおえる。
全歌集は、2005年、青幻舎・発売。
写真は、その表紙である。このブログの2009年2月16日の記事に、三月書房のネット通販より購入とあるので、読みはじめるまで3年余を待たせたわけだ。
「葦牙」は、1973年、愛知県立女子短期大学文芸部(彼女が卒業したばかりの大学)・刊。
97句、113首を収める。
俳句でも、進歩は速かったようだ。
例えば前後の句、
湖青し めくらの甲冑魚がはねる
海底の甲冑魚にも花明り
では後の作が、言葉がずっとなめらかだ。
最も好感を持ったのは、次の句である。
クマンバチが私の視線を折りに来る
しかし短歌の抒情が彼女に合った(角川短歌賞候補、短歌新人賞受賞)ようで、短歌の世界で活躍した。
先の4月1日の「群青」第23号批評会(記事あり)のおり、AUさんより借りた2冊のうち、新倉羽音(にいくら・はね)さんの第3詩集、「日を知る」を読みおえる。
2011年11月、土曜美術社出版販売・刊。
日本現代詩人会、日本詩人クラブ、会員。
詩誌「騒」同人。東京都・在住。
自立した婦人として、また混血児の生まれとして、様ざまな障りがあったようだ。
「変貌する藪椿の群れ」の結末にあるような、窮まって自然と同化しようとする傾向がある。
「今はもうない乳母車を押して」に描かれる老耄(ご自身の事ではない)の様が、僕の心をうつ。
初め5行を引用する。
丸太の柵に腰をかけ今はもうない
乳母車の把手をしっかり握ったまま
公園に入ってくる人の流れと向き合っている
(私の息子はどこへまぎれてしまったのだろう)
角川書店「増補 現代俳句大系」第4巻(昭和56年・刊)より、12番めの句集、篠原梵(しのはら・ぼん)「皿」を読みおえる。
今年2月29日の記事、尾崎迷堂「孤輪」以来である。
原著は、昭和16年、甲鳥書林・刊(昭和俳句叢書の1冊として)。
196ページ、340句、題は四国時代に(のちに彼は東京に出た)歩いた山のうち、皿ケ嶺より採ったと「後記」にある。
彼は臼田亜浪・門、俳誌「石楠」で活躍したとある。
当時の俳壇の風を知らないが、この句集には5・7・7音等の、破調が幾十もある。例えば、
わが垣も八ツ手の花のたわわ毬なす
以下に5句を引く。
寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼
腕の中にのけぞり吾子の風鈴もとむ
円く濃き新樹の影にバスを待つ
バス果てぬ春蟬ここだ鳴く中に
葉桜の中の無数の空さわぐ
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