カテゴリ「詩集」の190件の記事 Feed

2015年10月22日 (木)

村野四郎「亡羊記」

 筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第9詩集「亡羊記」を読みおえる。

 今月13日の記事(←リンクしてある)、「抽象の城」に継ぐ。

 原著は、1959年、政治公論社・刊。序詩+41編+後記(10ページ)を収める。

 翌年、第11回・読売文学賞を受賞。

 題名からして、懺悔のようだが、そうではない。「詩人の彫像」では、「神の名や人間の愛/そうした魂の好みもかたらない」と書いている。「神の名」や「人間の愛」は「魂の好み」ではなく、ぎりぎりの人間が縋るものだ。現代、ぎりぎりでない人間がいるだろうか。彼には他に、縋る資本があったのだろう。

 「骸骨について」では、「ある時 ぼくの形而上学の中を/こっちに向いて歩いてくるのだ」と書く。後記でもそうだが、彼らの世界は観念的であり、そこからの脱出を願う。僕としては、1歩後退して、現実の生活に戻れば良い、と考える。僕の書いているソネットも、「俳句、短歌に継ぐ、第3の大衆詩型」と考えている。

Photo

「フリー素材タウン」より、大菊の1枚。

2015年10月19日 (月)

「詩集ふくい2015」

Cimg8597 10月17日に、正式名称「年刊 詩集ふくい2015 第31集」が」届いた。

 2015年10月、福井県詩人懇話会・刊。

 県内在住、あるいは県出身の詩人、60名69編の作品と、執筆者名簿、「’14ふくい詩祭」の全記録を収める。

 「詩集ふくい」でのみ存じ上げる方もおり、また旧友・諸先輩の活躍、等を知り得て貴重な本である。

 また全体を読みおえたなら、ここで紹介したい。

 僕は、ソネット「ボトルコーヒー」を寄せた。

 内容は、もう1つのブログ「新サスケと短歌と詩」の10月18日付け記事(←リンクしてある)にアップした(1部、連分けを変えてある)ので、ご覧ください。

2015年10月17日 (土)

手許の3冊

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 「鯖江詩の会」代表の千葉・Aさんが、その会の発行する詩誌「青魚」No.83を送って下さった。

 僕はソネット8編を載せてもらった。その内容は、もう1つのブログ「新サスケと短歌と詩」(←リンクしてある)の、10月12日付け記事より、毎日1編ずつ紹介しているので、ご覧ください。

 また10月11日の「第10回苜蓿忌」のおり(記事は10月12日付けにアップ)、小林年子さんより、詩文集「白い品格」をいただいた。地方の文化活動などに、尽力される方である。

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 先日、楽天ブックスより、有川浩(ありかわ・ひろ)の小説、「植物図鑑」を買った。

 幻冬舎文庫、2015年・24刷。

 僕はすでに、彼女の小説の2冊、「レインツリーの木」と「阪急電車」を読んでいる。

2015年10月14日 (水)

 Kindle版「立原道造詩集」

Photo_2 kindle版「立原道造詩集」を、10インチタブレットで読みおえる。

 Amazonよりの購入・ダウンロードは、同題の今月6日の記事(←リンクしてある)で紹介した。

 横長81ページに、5章に分けて60余編のソネットと、「立原道造について」という略歴、他を載せている

 詩集の編集は、角川文庫版(角川版・全集に? 調べる余裕がない)に従っているようだ。ただしソネット以外の詩は収めていない。また文庫版に比べて、漢字のルビが大きく減っている。

 Kindle版・詩集は、横長1ページに1編のソネットを載せて(若干の例外を除き)おり、読みやすく親しみやすい。花や風や雲や小鳥や川、恋人をうたっただけでなく、世相へのはかない抵抗を読み取れる場合もある。

 立原道造のソネット以外の詩も電子本で読みたく、電子書籍化してクラッシュしてしまった古い角川文庫版の読書日記を、このブログの管理画面の検索で捜し、発行年・版数を確認した。ネット古書店にあるかも知れないが、ソネット以外の詩は見開きで読む理由がなく、手許の比較的新しい版の角川文庫で読めば良い、と思ってそれを探す事を諦めた。

 

2015年10月13日 (火)

村野四郎「抽象の城」

 筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第8詩集「抽象の城」を読みおえる。

 先の9月30日の記事(←リンクしてある)で紹介した、「実在の岸辺」に継ぐ。

 原著は、1954年、宝文館・刊。

 4部87編より、この本では「実在の岸辺」以降の作品らしい16編のみを収める。

 作品「無神論」では、「ぼくは寺院でもなく/ぼく自身がその神なのだから//リルケの神は存在であった/ぼくもまた燃えつきる存在/崩壊しつつある神なのだから」と書いている。資本の側に立つと、万能感があるのだろうか(老いゆく資本家だけれど)。詩人たる傲りからの言ではないだろう。

 「さんたんたる鮟鱇」は有名な作品だが、「もう 鮟鱇はどこにもない/惨劇は終っている」と書いている。惨劇は次世代に引き継がれるのだ。

 詩論を多く発行したり、現代詩人会(三省堂「現代詩大事典」にこの組織の名前、改称語の「日本現代詩人会」も載っていない)の幹事長になったり、「詩学」の投稿作品選者になったり、戦後の庶民をよく判っていない詩人が、影響力を振るおうとしたのは、戦後詩に良くない事だった。

Pixabayフリー素材サイト「Pixabay」より、棗の1枚。

2015年10月 6日 (火)

Kindle版「立原道造詩集」

Photo AmazonよりKindle版「立原道造詩集」をKindle for PCにダウンロードし、タブレットに同期した。

 81ページ(横長1ページか)、価格・99円。

 僕は高校文芸部員・時代に角川文庫で「立原道造詩集」を見つけ、よく読んだ。

 立原道造は、戦前に24歳で夭逝した詩人である。

 結婚してしばらく後、角川書店・6冊・版「立原道造全集」を古本で買って読んだ。後の5冊・版が出る前で、高価だった。

 文庫版を、電子書籍化・会社に委託して、CDに収め、おりおり読んでいた。しかしある時、そのCDが他の数10冊と共に、クラッシュしてしまった。

 別の角川文庫・版を買ったけれど、版が違って、見開き2ページに1編のソネットが載っているのではなかった。

 今回、Kindle版の「立原道造詩集」を見つけ、ダウンロードした所、横長ページに1編のソネットが収まっていた。

 ソネット形式以外の詩は、載っていないようである。

 この詩集をタブレットに残して、おりおり読み返したい。

2015年9月30日 (水)

村野四郎「実在の岸辺」

 筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第7詩集「実在の岸辺」を読みおえる。

 今月13日の記事(←リンクしてある)、「予感」に継ぐ。

 原著は、1952年、創元社・刊。

 「わが降誕節」(一)(二)では、自分をキリストになぞらえるようだ。

 また血筋の誇りは強く、「ながれる虹」では、「あらゆる存在の/論理の中を/血統の秩序は流れる」と書いた。「鎮魂歌」では、「忘却は あたたかく/虚無は やさしい」と挿んでいる。

 詩は万民の幸福を目指すのに、彼は資本家となって(1950年には大きな会社を設立し、専務取締役となった)、殆どの民が不幸になるのを眺め、そのギャップから虚無や嘔吐感が来るのだ。

 1951年に「詩学」に載った「新即物主義の展開」(後に「新即物主義の再出発―メモ」として詩論集「今日の詩論」に収録)では、ハイデッガーを盛んに引いて述べている。

 しかしハイデッガーは、ナチの初期より深く関わり、ナチ党員であった。

 また彼自身、実在主義者、実存主義者と呼ばれる事を拒否した。

 僕は3巻の「存在と時間」を読みかけたが、3巻めの時間論が、ベルクソン「創造的進化」を読んだ身には違和感があり、読めなかった経験がある。

 ハイデッガーは戦後詩の論拠にならない。

Photoフリー素材サイト「Pixabay」より、柿の1枚。

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2015年9月13日 (日)

村野四郎「予感」

 筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第6詩集「予感」を読みおえる。

 先の8月27日の記事(←リンクしてある)、同「故園の菫」に継ぐ。

 原著は、1948年、草原書房・刊。17編を収める。

 その「小序」で彼は、「戦争は、べつに私の詩をもえたたせなかった。戦後の平和も、とくべつにそれを燃えあがらせることはなかった。」と述べている。彼が翼賛詩の多くを書いたことは消せない。

 彼が戦時中にファナティックでなかったとして、戦後の自由と民主も信じなかった。彼が信じたのは、資本の論理であろう。資本の側に立ち得、家族と共の裕福な生活が彼の願いだったろう。

 そして抒情の欲求を満たすために詩を書く。彼の嘔吐感は、そのギャップに拠る。

 彼が戦後詩に残した罪は、深いのだ。

Photoフリー素材サイト「Pixabay」より、栗の1枚。

2015年8月27日 (木)

村野四郎「故園の菫」

 筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第5詩集「故園の菫」を読みおえる。

 先の8月21日の記事(←リンクしてある)、同「珊瑚の鞭」に継ぐ。

 原著は、1945年(昭和20年)1月、梧桐書院・刊。

 弟の戦死を悼んだ「海の声」では、「おまえの血が どんなに美しく/鉄の甲板を流れたであろう/おまえの血が どんなに輝きながら/海へ滴りおちたであろう」と戦闘死を美化している。

 「春の尺牘(てがみ)」では、「ああ 大東亜の広袤を/僕たち 若い友情のリボンで結ぶ/そのよろこびで/僕はうっとりしている」と侵略の美化に酔っている。

 また1944年3月の「珊瑚の鞭」に続く詩集発行で、敗戦近く続けて出版できたのは、理研コンツェルンの重役だった立場も役立っただろう。

 原本にあたっていないのだが、これらの時期の詩が旧かなでなく、新かなになっているのも、不審である。

Photoフリー素材サイト「Pixabay」より、ブドウの1枚。

2015年8月25日 (火)

阪下ひろ子「引き出しの中の空」

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 8月22日の記事、「届いた詩集2冊」で紹介した2冊のうち、阪下ひろ子「引き出しの中の空」を読みおえる。

 2015年8月、澪標・刊。

 2章に別れ、「Ⅰ」では生活、原発、原爆などを作品化させている。

 「Ⅱ」は、姑、舅の看取りを描いて、圧巻である。共に無事、見送ったようである。

 大阪文学学校の通信教育部、神戸女子大文学講座、に学んだ。

 ただ、少しのレトリックは、用いない方が良い、と僕は思う。

 生活と仕事をうたうか、レトリックに賭けるか、のいずれかの道を深めてほしい。

 生活、芸術、政治の三叉路の中で、彼女は佇ちつくすようだ。

 僕は、生活を把る。「人の心を最もわからない者が、詩人になる。」などと、揶揄・侮蔑されたくないから。

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