ミニ薔薇2輪
キッチンの窓辺で咲いたミニ薔薇2輪を、軒下で写真に撮った。
今月18日の同題の記事(←リンクしてある)以来の開花である。
左の花は8月25日、右の花は8月28日に、撮っている。共に咲きたけてしまった。
花は小さく、色も薄れたが、以前の株よりは花びらの数の多いのが良い。
キッチンの窓辺で咲いたミニ薔薇2輪を、軒下で写真に撮った。
今月18日の同題の記事(←リンクしてある)以来の開花である。
左の花は8月25日、右の花は8月28日に、撮っている。共に咲きたけてしまった。
花は小さく、色も薄れたが、以前の株よりは花びらの数の多いのが良い。
筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第5詩集「故園の菫」を読みおえる。
先の8月21日の記事(←リンクしてある)、同「珊瑚の鞭」に継ぐ。
原著は、1945年(昭和20年)1月、梧桐書院・刊。
弟の戦死を悼んだ「海の声」では、「おまえの血が どんなに美しく/鉄の甲板を流れたであろう/おまえの血が どんなに輝きながら/海へ滴りおちたであろう」と戦闘死を美化している。
「春の尺牘(てがみ)」では、「ああ 大東亜の広袤を/僕たち 若い友情のリボンで結ぶ/そのよろこびで/僕はうっとりしている」と侵略の美化に酔っている。
また1944年3月の「珊瑚の鞭」に続く詩集発行で、敗戦近く続けて出版できたのは、理研コンツェルンの重役だった立場も役立っただろう。
原本にあたっていないのだが、これらの時期の詩が旧かなでなく、新かなになっているのも、不審である。
8月22日の記事、「届いた詩集2冊」で紹介した2冊のうち、阪下ひろ子「引き出しの中の空」を読みおえる。
2015年8月、澪標・刊。
2章に別れ、「Ⅰ」では生活、原発、原爆などを作品化させている。
「Ⅱ」は、姑、舅の看取りを描いて、圧巻である。共に無事、見送ったようである。
大阪文学学校の通信教育部、神戸女子大文学講座、に学んだ。
ただ、少しのレトリックは、用いない方が良い、と僕は思う。
生活と仕事をうたうか、レトリックに賭けるか、のいずれかの道を深めてほしい。
生活、芸術、政治の三叉路の中で、彼女は佇ちつくすようだ。
僕は、生活を把る。「人の心を最もわからない者が、詩人になる。」などと、揶揄・侮蔑されたくないから。
僕のこのブログの、毎日のアクセス数は、2つの所から確認している。
1つは、3カウンター(ブログの右サイドバーで公開)であり、もう1つは忍者アクセス解析ツールのアクセス数表示(非公開)である。
共にページビュー数で比べても、毎日、違っている。普通は、測定間隔時刻の差で説明されるが、そうではない。
以下にここ1週間の各ページビュー数を並べる。日付・3カウンターのページビュー数(解析ツールのページビュー数)である。
8月16日・63(76)、17日・61(87)、18日・62(71)、19日・51(68)、20日・74(252)、21日・42(61)、22日・44(50)。
数え方が違うか、作為があるとしか、思えない。ネット上は、まだ不安定である。
昨日の記事で頂いた事を報せた詩集2冊の内、「渡辺本爾詩集 2」を読みおえる。
昨年6月14日の記事(←リンクしてある)で紹介した、「同 1」に継ぐ。
間が空いたので出版を心配したが、杞憂となって良かった。彼の全詩集となる筈である。
発行が2015年2月となっているが、僕の友人も最近に受け取ったらしく、何かの経緯があったのだろう。
今回も黒がちのモノクロ写真に、白い字で書いたページが多い。
この「渡辺本爾詩集 2」の優れている点の1つは、彼の第1詩集「華苑」の作品を、多く読める事だろう。
他に詩集「ぼくの夜汽車」、同人詩誌「果実」、年刊アンソロジー「詩集ふくい」より、作品が採られている。
詩「ひるむな と」には、心臆する時に「ひるむな」と唱える事が、作品化されている。教職の階段を登りつめた彼にしてこうであるかと、僕は親しみを感じる。
続編があるなら、それを待ちたい。
筑摩書房「村野四郎全詩集」(1968年・刊)より、第4詩集「珊瑚の鞭」を読みおえる。各詩集は逆編年順に収められているので、僕は全詩集の後方から読んでいる。
このブログでは、今年7月7日の記事(←リンクしてある)、「抒情飛行 拾遺」以来である。
詩集は1944年(昭和19年)、湯川弘文社・刊。
詩「丘の上」では、「じっと見つめてごらん/深い日本晴の空の中を/この古い国の古い丘の上から」と書いて、どの国の空も深いこと、多くの国が古くかつ古いだけで国の優越とはならないことを、故意に見逃している。
また「前線への手紙」では、「おまえはもはや人ではない/民族の一つの突端/新しい秩序をのために/新しい歴史をひらく/鋭い鉄の刃先だ」と書いて、戦争理念の虚妄と戦争の非人間性を賛美した。
僕は詩人の戦中の作品を、後世からから取り上げて、批判するだけではない。ある意図があり、それを展開できたら、と思う。
先の8月7日の記事(←リンクしてある)、「村上さんのところ」(5)では、苦情を呈し、翌日の記事「与謝野晶子大全」では「お蔵入り」とまで書きながら、僕は「村上さんのところ」をタブレットで読み続けて来た。
全体の28%を読みおえている。
彼は自分のファンに「村上主義者」を名乗ってほしいようだが、僕は彼が「チャラい」という「ハルキスト」だと思う。彼の著作を何度も読み返すほどのファンではない。
「ハルキスト」は、1字違うと、マルキストになる事も、嫌われる要因か。
主流派に対する反主流派、教祖も嫌う異端派、「ハルキスト」として、今後も読んでゆこう。
1昨日の記事、「届いた2冊」の内の1冊、詩の絵本「ひらめきと、ときめきと。」を読みおえる。
絵本というには詩のウェイトが大きく、詩人・秋亜綺羅さんの15編の詩と、柏木美奈子さんのイラストの合作になる、詩画集(この言葉は「広辞苑」第6版にはないようだ)として読んだ。
秋亜綺羅さんの詩が、人生に否定的に思える。
例えば「三人の友だち」では、「それとおんなじで/人間くんには愛する場所がないのです」の連があり、「愛なんて」には、「愛なんて/愛するものと/愛されるものがあれば成立する/そんな程度のことは/機械に任せておこうよ」の連がある。
また「ひとは嘘をつけない」には、「ひとは嘘をつけない/だって真実なんて/辞書の中にしかないのだから」とも書く。
しかし「一+一は!」の、「ひらめきと、ときめきさえあれば/生きていけるさ」の連など、芸術家としての生を肯定しているようだ。
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