「未来」所属の歌人・三木佳子(みき・よしこ)さんの第1歌集、「風にあずけて」を読みおえる。
2008年、短歌研究社・刊。米田律子・跋。
知覚過敏の痛みに耐えながら暮らして、妹の死去、同居する母の脳梗塞による不自由などに遭う。
歌集の「あとがき」ではその母も亡くなったと書き、すでに父はいない。
彼女は独身らしく、短歌を詠む・読む事が、そういう生活を越えてゆく、大きな力となるのだろう。
以下に6首を引く。
鳩の群れ秋陽の屋根にまどろむを見つつ電車は地下に入りゆく
熊蟬は朝を待たずに啼きはじめ知覚過敏の吾をいたぶる
かんな月神のいぬ間をもう少し寄り道したい川の向こうへ
車椅子に母のかかぐるVサインふぶく桜と共に撮らるる
十五夜の月はまどかに中庭を跳ぬる仔猫ら声立てぬなり
肌色のヒガンバナ咲きこの世から消えてしまった妹を呼ぶ
2005年、砂子屋書房・刊。岡井隆の跋文、「あとがき」を収める。
彼女には第1歌集「いんなあ・とりつぷ」(1995年、砂子屋書房・刊)、第3歌集「櫂をください」(2012年、短歌研究社・刊)があるが、僕は内容を知らない。
この歌集では、人生の感慨をレトリック豊かに、かつ素直に詠まれた作品が多い。
レトリックの生れた喜びを詠う歌など、ほほえましいくらいだ。
以下に7首を引く。
早春の土の香匂ふ野に出でて妥協のための種子を蒔くべし
虚空よりメールが届く……少しだけ不自由の苗も育ててゐます
アレンジはしとと優美で切り口ははつかに苦きレジュメが届く
急行が通過するとき顕ちきたるレトリックひとつさやさやと鳴る
口笛を吹けないあなたさみどりのいたや楓が呼んでゐるのに
微風すらしづめて夜半を唄ひゐる天動説を知らぬフルート
ペナルティをとられしことも夕暮れて鰤大根を煮炊き始めつ
結社歌誌「コスモス」2014年1月号の、「その一集」を末まで読む。
昨年12月25日の記事(←リンクしてある)、「『コスモス』1月号」では、「月集スバル」「月集シリウス」、特選欄等の歌を、駆け足で読んできた。
日数があったので、「その一集」を、カナダから始まる外国、北海道から南下する日本の鹿児島県(103ページ)まで、作品を読み続けた。
「その一集」の詠いぶりは、こなれている。「その二集」「あすなろ集」の新鮮さも、再度取り込みたい。
2月号が届くであろう1月17日まで、まだ日数があるので、続いて「あすなろ集」を読み続けたい。
砂子屋書房の現代短歌文庫(65)「続々 小池光歌集」(2008年・刊)より、第6歌集「滴滴集」を読みおえる。
1昨日(12月28日)の記事で紹介した、第7歌集「時のめぐりに」と前後逆に収められている。
原著は、2004年、短歌研究社・刊。
彼は私生活をあまり詠まないから、読書や新しい見聞に取材して、作歌しているようだ。
この本の末尾には、解説はなくて、自身のエッセイが10余編載っていて、自伝的断片や、ユーモア溢れるエピソードを読む事ができる。
3冊の現代短歌文庫で、彼の6冊の歌集を読みおえて、さらに彼の歌集を読むかどうかは、今はわからない。
以下に5首を引く。
手の先がすでに睡りに没せりとわがみづからにゆるし乞ふあはれ
千鳥ヶ淵の上空にきてゆるらかに向(む)きをかへつつある飛行船
エクセルに長ずる者が支配者のごとくふるまふ職場の憂(う)しも
教室に入らずこのまままつすぐに廊下を過ぎてゆけるものならば
三重の否定は肯定的否定「つまらなくない此の世とてない」
砂子屋書房の現代短歌文庫「続々 小池光歌集」(2008年・刊)より、第7歌集「時のめぐりに」を読みおえる。
このあとに第6歌集「滴滴集」を収める。
原著は、2004年、本阿弥書店・刊。
今月24日の記事「草の庭」に続いて、取り上げる。
この歌集は、歌誌「歌壇」(本阿弥書店)に、2003年4月号より同題で1年間、連載した作品をおもに収める。
「後記」に拠ると、休日にはしばしば電車で遠出し、用のない町を歩いて、作歌の感興を誘ったそうである。尋常でない気もするが、1年間の連載となると、そうしなければならなかったのだろう。
以下に5首を引く。
化けの皮が剥がれるときにめりめりといふ音すらむその音聞かむ
花といふこの「幻影の紹介者」つかのまの虹とれとささやく
ゆめならば曾祖父四人曾祖母四人ひとつ座敷に座りをりけり
歯車の嚙み合ふときにはさまりし砂粒(さりふ)なんといふひびきを立つる
いいでせう硝酸一瓶ちやうだいな、などと言ひくるあやしげな生徒(やつ)
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