カテゴリ「句集」の145件の記事 Feed

2016年3月16日 (水)

届いた2冊

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 Amazonマーケットプレイスの某店に注文した、近藤芳美・遺歌集「岐路以後」が、昨日(3月15日)に届いた。状態はごく良く、おそらく1読したのみだろう。

 岩波書店「近藤芳美集」の歌集編・全5冊を読み進んで、第5巻の「命運」を残すのみとなった。その次の「岐路」を入手したいが、Amazonマーケットプレイスでは、とんでもないプレミアムが付いている。それでその次の遺歌集「岐路以後」を購入した訳である。

 この春もまた、「年刊句集 福井県」を読みたく、福井県俳句作家協会・事務局に昨日に電話連絡すると、さっそく今日、「第54集」(2016年3月・刊)が届いた。よく読んで、詩歌の創作の勉強に資したい。

2016年3月 8日 (火)

野沢節子「未明音」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、12番めの句集、野沢節子「未明音」を読みおえる。

 先の2月19日の記事(←リンクしてある)、相生垣瓜人「微茫集」に継ぐ。

 原著は、1955年、琅玕洞・刊。528句。

 野沢節子(のざわ・せつこ、1920年~1995年)は、臼田亜浪の「石楠」で大野林火の選を受け、戦後に彼の「濱」に参加、のち俳誌「蘭」を創刊・主宰。

 「未明音」は、1933年頃に脊椎カリエスを病み、その闘病句集である。彼女は1957年に完治と診断された。

 結核病やハンセン病が完治する時代となり、療養文学の感じ方も変わったように、僕は思う。

 以下に5句を引く。

荒涼たる星を見守る息白く

黄塵に息浅くして魚のごとし

林檎真赤五つ寄すればかぐろきまで

白桃を剥くうしろより日暮れきぬ

霜の夜の眠りが捕ふ遠き汽車

Photoフリー素材サイト「Pixabay」より、ラナンキュラスの1枚。

2016年2月19日 (金)

相生垣瓜人「微茫集」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、11番めの句集、相生垣瓜人「微茫集」を読みおえる。

 今月3日の記事(←リンクしてある)、佐藤鬼房「夜の崖」に継ぐ。

 原著は、1955年、近藤書店・刊。1941年までの「黄茅抄」91句、1948年よりの「白葦抄」343句を収める。

 相生垣瓜人(あいおいがき・かじん、1898年~1985年)は、「ホトトギス」より「馬酔木」に投句し同人となり、俳誌「海坂」を共宰した。

 当時、社会性俳句の盛んな時期、超然とした句境を示した。貧窮の句が戦後を思わせる。

 以下に5句を引く。

稲負ひて闇に追はれて来しふたり

つゆじもの消ぬべき文字のかそかなる

か程まで枯れ急がねばならぬにや

離りゆく遠く一団の冬として

枯菊を焚くなり淡き火を期して

Photo_2ダウンロード写真集「フォト満タン」より、冬景色の1枚。

2016年2月 3日 (水)

佐藤鬼房「夜の崖」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、10番めの句集、佐藤鬼房「夜の崖」を読みおえる。

 先の1月25日の記事(←リンクしてある)、鈴木真砂女「生簀籠」に継ぐ。

 原著は、1955年、酩酊社・刊。第1句集「名もなき日夜」(1951年・刊)からの再録「名もなき日夜」65句と、「夜の崖」の279句を収める。

 西東三鬼の序、鈴木六林男の跋、著者略伝を付す。

 佐藤鬼房(さとう・おにふさ、1919年~2002年)は、岩手県に生まれ、1925年に父を亡くし、小卒で職に就く。7年の兵役に就く。俳誌を移ってゆき、「天狼」同人、「小熊座」創刊・主宰。

 新興俳句から出発し、社会性俳句の代表作家とされたが、作風は変容・深化し続けたとされる(三省堂「現代俳句大事典」2005年・刊、等に拠る)。

 以下に5句を引く。

吾のみの弔旗を胸に畑を打つ

罪なきパンかがまり嚙る吾子と吾

沖にたつ冬虹棒の足の午後

岸壁に真昼の焚火髯かゆし

髪薄き友の肩幅木を挽けり

Photoダウンロード写真集「フォト満タン」より、雪景色の1枚。

2016年1月25日 (月)

鈴木真砂女「生簀籠」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、9番目の句集、鈴木真砂女「生簀籠」を読みおえる。

 今月13日の記事(←リンクしてある)、平畑静塔「月下の俘虜」に継ぐ。

 原著は、1955年、春燈社・刊。久保田万太郎の序句、168句、大場白水郎の跋文、後書を収める。

 鈴木真砂女(すずき・まさじょ、1906年~2003年)は、旅館の女将を経て、小料理屋「卯波」を経営。戦後、久保田万太郎の「春燈」に入り、主宰の没後の交替にも、同誌に拠った。

 戦後の句ばかりとはいえ、戦前から俳句を学んだ臭みはある。

 僕は詳しくは知らないが、彼女のアマチュアリズムが句を救っている。

 以下に5句を引く。

初凪やものゝこほらぬ国に住み

病人に鰈煮てをり春の雨

そむきたる子の行末や更衣

小づくりは母親ゆづり秋袷

波先のすぐそこにあり冬の菊

Photoダウンロード写真集「フォト満タン」より、雪景色の1枚。

2016年1月24日 (日)

年刊句集「福井県」第44集(3)

 昨年7月5日の記事(←リンクしてある)の後も、年刊句集「福井県」第44集(2006年2月・刊)を少しずつ読んで来た。

 今回の区切りは、全325ページ(句集分のみ)の、117ページ~135ページである。19ページ(1ページ2段、2名)の38名、380句(1人10句)を読んだ事になる。

 言い訳すれば、読み進みの遅いのは、現在とは自然災害・異常気象・失われた20年からの脱出(?)等、文学の感覚が異なるからだ。機会詠の多い俳歌に特に。

 しばらくしたら、同集の第54集(平成27年版)が発行される。福井県俳句作家協会の事務局に伝手があるので、是非、入手して読みたい。

 今回に付箋を貼ったのは、次の1句。M・紀子さんの「蹴上疎水」10句より。

春一番 夢持つ仲間と動き出す

 悲苦の多い中で、春とともに、仲間と活動を進めよう、という夢ある1句である。

Photo「フリー素材タウン」より、水仙の1枚。

2016年1月13日 (水)

平畑静塔「月下の俘虜」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、8番めの句集、平畑静塔「月下の俘虜」を読みおえる。

 この前の赤城さかえ「浅蜊の唄」は、昨年12月22日の記事(←リンクしてある)にアップした。

 原著は、1955年、酩酊社・刊。647句。

 平畑静塔(ひらはた・せいとう、1905年~1997年)は、精神科医として病院に勤め、1951年にカトリックに入信するが、その後離れる(三省堂「現代俳句大事典」2005年・刊、他に拠る)。

 「月下の俘虜」には、京大俳句を含む「初期」90句、俘虜・復員・帰還の「終戦以後」54句と少なく、「天狼時代」503句が多くを占める。

 以下に5句を引く。

ホテル裏花の墓場が昏れてゆく

一身の芋八貫と汗ともどる

無花果を食ふ天刑の名をうけて

宛てがはれ住みつく棟の雀の巣

春月に妻一生の盥置く

Photo「フリー素材タウン」より、水仙の1枚。

2015年12月22日 (火)

赤城さかえ「浅蜊の唄」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、7番めの句集、赤城さかえ「浅蜊の唄」を読みおえる。

 今月9日の記事(←リンクしてある)、飯田龍太「百戸の谿」に継ぐ。

 原著は、1954年、書肆ユリイカ・刊。630句。

 赤城さかえ(1908年~1968年、享年59.)は、東京帝大の学生の頃、共産党地下活動に参加し退学。結核病に苦しみながら戦後に共産党に入党、俳句評論・創作・実践に活躍したが、直腸癌のため早逝した。

 戦時中の転向が、「人間的な誠実さを示し」、左翼公式主義に対したとされる。

 以下に5句を引く。

管制の灯に読む凍つる闇を背に

寒ひでり飢ゑはこの家に遠からず

月下にて別れの寒き語を二三

生か死のみ我慢強しなどゆめ言うな

梅雨をたゝかう乙女等すでに泣き易く

Christmascard574742_640フリー素材サイト「Pixabay」より、クリスマス関連の1枚。

2015年12月 9日 (水)

飯田龍太「百戸の谿」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、6番めの句集、飯田龍太「百戸の谿」を読みおえる。

 先の11月24日の記事(←リンクしてある)にアップした、清崎敏郎「安房上総」に継ぐ。

 原著は、1954年、書林新甲鳥・刊。256句。

 飯田龍太(いいだ・りゅうた、1920年~2007年)は、飯田蛇笏の4男であったが、兄たちの病死、戦死により、家督を継ぎ、俳誌「雲母」の主宰を継いだ。

 句集「百戸の谿」は、逆編年順であり、1953年の92句より、次第に減る。

 戦後に出発した俳句集として、叙情と新機軸が合致し、清新である。詩人の大岡信が評価したように、戦後詩の「櫂」グループに比されるだろう。

 以下に5句を引く。

いきいきと三月生る雲の奥

夏山に照る瀬ひびくは夕べのため

月の坂こころ遊ばせゐたるなり

抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

寒の水ごくごく飲んで畑に去る

Photoフリー素材サイト「足成」より、山茶花の1枚。

2015年11月24日 (火)

清崎敏郎「安房上総」

 角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、5番めの句集、「安房上総」を読みおえる。

 今月11日の記事(←リンクしてある)、大場白水郎「散木集」に継ぐ。

 原著は、1954年、若葉社・刊。

 「安房上総(あわかずさ)」には、清崎敏郎(きよさき・としろう、1922年~1999年)の、1940年~1953年の333句を収める。

 師・富安風生(この大系の監修者の1人)の長々しい序文が、虚子を真似たか、嫌味である。

 敗戦を挟んだ句を、同列に収めた事にも、疑問がある。

 以下に5句を引く。

桑は実に小学校は農休み

百姓の閾居の高く鳳仙花

くらがりに鮑を生けて祭宿

網干せば夏草の色濃くなんぬ

ドアしめてよりのひとりの春灯

Photoフリー素材サイト「Pixabay」より、蜜柑の1枚。

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