角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、12番めの句集、野沢節子「未明音」を読みおえる。
先の2月19日の記事(←リンクしてある)、相生垣瓜人「微茫集」に継ぐ。
原著は、1955年、琅玕洞・刊。528句。
野沢節子(のざわ・せつこ、1920年~1995年)は、臼田亜浪の「石楠」で大野林火の選を受け、戦後に彼の「濱」に参加、のち俳誌「蘭」を創刊・主宰。
「未明音」は、1933年頃に脊椎カリエスを病み、その闘病句集である。彼女は1957年に完治と診断された。
結核病やハンセン病が完治する時代となり、療養文学の感じ方も変わったように、僕は思う。
以下に5句を引く。
荒涼たる星を見守る息白く
黄塵に息浅くして魚のごとし
林檎真赤五つ寄すればかぐろきまで
白桃を剥くうしろより日暮れきぬ
霜の夜の眠りが捕ふ遠き汽車
フリー素材サイト「Pixabay」より、ラナンキュラスの1枚。
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、11番めの句集、相生垣瓜人「微茫集」を読みおえる。
今月3日の記事(←リンクしてある)、佐藤鬼房「夜の崖」に継ぐ。
原著は、1955年、近藤書店・刊。1941年までの「黄茅抄」91句、1948年よりの「白葦抄」343句を収める。
相生垣瓜人(あいおいがき・かじん、1898年~1985年)は、「ホトトギス」より「馬酔木」に投句し同人となり、俳誌「海坂」を共宰した。
当時、社会性俳句の盛んな時期、超然とした句境を示した。貧窮の句が戦後を思わせる。
以下に5句を引く。
稲負ひて闇に追はれて来しふたり
つゆじもの消ぬべき文字のかそかなる
か程まで枯れ急がねばならぬにや
離りゆく遠く一団の冬として
枯菊を焚くなり淡き火を期して
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、10番めの句集、佐藤鬼房「夜の崖」を読みおえる。
先の1月25日の記事(←リンクしてある)、鈴木真砂女「生簀籠」に継ぐ。
原著は、1955年、酩酊社・刊。第1句集「名もなき日夜」(1951年・刊)からの再録「名もなき日夜」65句と、「夜の崖」の279句を収める。
西東三鬼の序、鈴木六林男の跋、著者略伝を付す。
佐藤鬼房(さとう・おにふさ、1919年~2002年)は、岩手県に生まれ、1925年に父を亡くし、小卒で職に就く。7年の兵役に就く。俳誌を移ってゆき、「天狼」同人、「小熊座」創刊・主宰。
新興俳句から出発し、社会性俳句の代表作家とされたが、作風は変容・深化し続けたとされる(三省堂「現代俳句大事典」2005年・刊、等に拠る)。
以下に5句を引く。
吾のみの弔旗を胸に畑を打つ
罪なきパンかがまり嚙る吾子と吾
沖にたつ冬虹棒の足の午後
岸壁に真昼の焚火髯かゆし
髪薄き友の肩幅木を挽けり
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、9番目の句集、鈴木真砂女「生簀籠」を読みおえる。
今月13日の記事(←リンクしてある)、平畑静塔「月下の俘虜」に継ぐ。
原著は、1955年、春燈社・刊。久保田万太郎の序句、168句、大場白水郎の跋文、後書を収める。
鈴木真砂女(すずき・まさじょ、1906年~2003年)は、旅館の女将を経て、小料理屋「卯波」を経営。戦後、久保田万太郎の「春燈」に入り、主宰の没後の交替にも、同誌に拠った。
戦後の句ばかりとはいえ、戦前から俳句を学んだ臭みはある。
僕は詳しくは知らないが、彼女のアマチュアリズムが句を救っている。
以下に5句を引く。
初凪やものゝこほらぬ国に住み
病人に鰈煮てをり春の雨
そむきたる子の行末や更衣
小づくりは母親ゆづり秋袷
波先のすぐそこにあり冬の菊
昨年7月5日の記事(←リンクしてある)の後も、年刊句集「福井県」第44集(2006年2月・刊)を少しずつ読んで来た。
今回の区切りは、全325ページ(句集分のみ)の、117ページ~135ページである。19ページ(1ページ2段、2名)の38名、380句(1人10句)を読んだ事になる。
言い訳すれば、読み進みの遅いのは、現在とは自然災害・異常気象・失われた20年からの脱出(?)等、文学の感覚が異なるからだ。機会詠の多い俳歌に特に。
しばらくしたら、同集の第54集(平成27年版)が発行される。福井県俳句作家協会の事務局に伝手があるので、是非、入手して読みたい。
今回に付箋を貼ったのは、次の1句。M・紀子さんの「蹴上疎水」10句より。
春一番 夢持つ仲間と動き出す
悲苦の多い中で、春とともに、仲間と活動を進めよう、という夢ある1句である。
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、8番めの句集、平畑静塔「月下の俘虜」を読みおえる。
この前の赤城さかえ「浅蜊の唄」は、昨年12月22日の記事(←リンクしてある)にアップした。
原著は、1955年、酩酊社・刊。647句。
平畑静塔(ひらはた・せいとう、1905年~1997年)は、精神科医として病院に勤め、1951年にカトリックに入信するが、その後離れる(三省堂「現代俳句大事典」2005年・刊、他に拠る)。
「月下の俘虜」には、京大俳句を含む「初期」90句、俘虜・復員・帰還の「終戦以後」54句と少なく、「天狼時代」503句が多くを占める。
以下に5句を引く。
ホテル裏花の墓場が昏れてゆく
一身の芋八貫と汗ともどる
無花果を食ふ天刑の名をうけて
宛てがはれ住みつく棟の雀の巣
春月に妻一生の盥置く
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、7番めの句集、赤城さかえ「浅蜊の唄」を読みおえる。
今月9日の記事(←リンクしてある)、飯田龍太「百戸の谿」に継ぐ。
原著は、1954年、書肆ユリイカ・刊。630句。
赤城さかえ(1908年~1968年、享年59.)は、東京帝大の学生の頃、共産党地下活動に参加し退学。結核病に苦しみながら戦後に共産党に入党、俳句評論・創作・実践に活躍したが、直腸癌のため早逝した。
戦時中の転向が、「人間的な誠実さを示し」、左翼公式主義に対したとされる。
以下に5句を引く。
管制の灯に読む凍つる闇を背に
寒ひでり飢ゑはこの家に遠からず
月下にて別れの寒き語を二三
生か死のみ我慢強しなどゆめ言うな
梅雨をたゝかう乙女等すでに泣き易く
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、6番めの句集、飯田龍太「百戸の谿」を読みおえる。
先の11月24日の記事(←リンクしてある)にアップした、清崎敏郎「安房上総」に継ぐ。
原著は、1954年、書林新甲鳥・刊。256句。
飯田龍太(いいだ・りゅうた、1920年~2007年)は、飯田蛇笏の4男であったが、兄たちの病死、戦死により、家督を継ぎ、俳誌「雲母」の主宰を継いだ。
句集「百戸の谿」は、逆編年順であり、1953年の92句より、次第に減る。
戦後に出発した俳句集として、叙情と新機軸が合致し、清新である。詩人の大岡信が評価したように、戦後詩の「櫂」グループに比されるだろう。
以下に5句を引く。
いきいきと三月生る雲の奥
夏山に照る瀬ひびくは夕べのため
月の坂こころ遊ばせゐたるなり
抱く吾子も梅雨の重みといふべしや
寒の水ごくごく飲んで畑に去る
角川書店「現代俳句大系」第10巻(1972年・刊)より、5番めの句集、「安房上総」を読みおえる。
今月11日の記事(←リンクしてある)、大場白水郎「散木集」に継ぐ。
原著は、1954年、若葉社・刊。
「安房上総(あわかずさ)」には、清崎敏郎(きよさき・としろう、1922年~1999年)の、1940年~1953年の333句を収める。
師・富安風生(この大系の監修者の1人)の長々しい序文が、虚子を真似たか、嫌味である。
敗戦を挟んだ句を、同列に収めた事にも、疑問がある。
以下に5句を引く。
桑は実に小学校は農休み
百姓の閾居の高く鳳仙花
くらがりに鮑を生けて祭宿
網干せば夏草の色濃くなんぬ
ドアしめてよりのひとりの春灯
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