写真は順に、左上が木瓜の花(他の株でも咲いている)。
右上が、赤花姫辛夷である。盛りを過ぎていた。
左下は、クリスマスローズの株である。4、5株あったのだが、1株しか残っていない。
右下は、軒下の鉢で咲く、洋種椿(品種不明)である。
「群青の会」(同人詩誌「群青」の発行母体)会員に会いたくなったので、こぐま星座さんに日時の設定を依頼し、AUさんと共に3人が、今日10時より喫茶店「ユトリ珈琲」で会った。
今年3月7日(記事あり)以来の会合である。
僕の歌集(CD-ROM版で発行予定)のプリント版(A4用紙66枚)をふたりに見せると、好評だった。
「コスモス」4月号の僕の短歌も、読んでもらった。
また小浜市在住の詩人から頂いた詩集、「えにし」も見せた。
先日、本の山を整理していて見つけた、こぐま星座さんの第1詩集「俺には俺の世界」と、それに次ぐ初版「なんなはん」を(ふたりにはメールで報告してあったが)、お目にかけた。
詩の社会性とか、時代にいかに過ごすか、などを話し合った。
たちまち11時半となり、散会した。
写真は、(ふたりにも、読者にも失礼ながら、プライバシー保護のため)背後から撮らせてもらった。
「運河」所属の歌人、山中律雄(やまなか・りつゆう)さんの第3歌集、「変遷」を読みおえる。
2009年、角川書店・刊。
彼は秋田県の山村の、寺院住職をしている。
貧しい村の風物と村人に、「思いの深さ」にこころを傾けて歌を詠んでいきたいと願う、と「あとがき」に書くけれども、信仰に頼らざるを得ない心身の貧しさを、本当に理解しているのだろうか。
もっとも僕は、俵万智「サラダ記念日」によって短歌への目を開いた者のひとりで、ライトヴァースをいまだに駄目だと思えなく、軽みを肯定している。
以下に6首を引く。
アイロンのあたたまるまで待つ妻の待つこと多きひと世とおもふ
台風に田畑のものも乏しきに村はこぞりて寺をやしなふ
朝はやき厨にたちて火のほとり水のほとりにはたらく妻は
重なれる歳月を経て父と母われと妻子らいづちに行かん
きぞの雨けふの疾風に萌え出でて峡の木立のけぶるごと見ゆ
ただ耐ふるのみに生ききて山あひのをみならはかく美しく老ゆ
今月2日の記事、「あすなろ集」末まで、に書いた通り、歌誌「コスモス」2014年4月号の、第1段階の「その二集」に読み入り、先日に読みおえた。
「その二集」の作品には、フレッシュさがあって、僕たちも刺激を受ける。
僕が付箋を貼ったのは、愛知県K・すみ子さんの、次の1首(172ページ・下段)である。
夫は逝き子は独立し誰も居ぬ聖夜にわれは年賀状書く
高齢化、過疎化によって、このような独居のお年寄りが増えていくのであろう。年賀状が救いになっている。
平凡社「世界名詩集大成(1)古代・中世」(1960年・刊)より、カトゥルス「詩集(抄)」(呉茂一・坪井光雄・訳)を読みおえる。
今月3日の記事(←リンクしてある)で紹介した、「ギリシア詞華集」に継ぐ詩集である。
カトゥルスは、紀元前85年~54年頃の人と推定され、古代ローマの抒情詩人として評価高く、117編が遺されている。
恋の詩、身めぐりの人をうたった詩、死者を悼む詩、いずれも詩情豊かである。
中でも僕は、弟の死を歎く「逢うての別れを」に最も惹かれた。
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