思潮社「広部英一全詩集」(2013年・刊)より、単行詩集未収録詩篇(3)として、「菜の花の黄色に」(1972年)~「晩夏」(1982年)の48編を読みおえる。
今月22日の記事(←リンクしてある)、同(2)に続く。
前回分より「舟小屋」「水浴」、今回の「菜の花の黄色に」「午後」「今夜」などの、少年少女の死・消失のテーマは、或いは当時(1972年頃)、学生運動が敗北したあとの若者を気遣うものだろうか、と思う。
沖積舎「渡辺白泉全句集」(2005年・刊)より、4回めの紹介をする。
今月26日の記事に、同(3)がある。
今回の紹介は、1957年4月・刊行の「筑摩書房版 現代日本文学全集・91 現代俳句集」に収載された「渡辺白泉集」よりである。
この集の貴重な点は、執筆禁止下にあった彼が、戦前・戦中にひそかに書き溜めた句を、読める事である。
以下に5句を引く。
戦前
きみとゆけば真間の継橋ふつと照る
能面のひと集まりて吾子を焼く
戦中
若き頬ならべ水葬礼を吹く
(終戦)
新しき猿股ほしや百日紅
戦後
母の名をいくつも書きて七夕す
(注 漢字の旧字を、新字にした所があります)。
日本放送出版協会・刊、1991年・14刷。
僕は今月8日の記事(←リンクしてある)で、「ホーキング、宇宙を語る」を紹介している。
「最新宇宙論」では、1990年に博士が来日したおりの講演、他に最新物理学の啓蒙的な小文を幾つか、載せている。
彼は一般相対論と量子力学を統合する事によって、宇宙を解明しようとしているようだ。
ビッグバン、あるいは宇宙が収縮するとしてその極点のビッグクランチでは、空間や時間といった概念は意味をなさず、科学理論はすべて通用しなくなるだろう、と述べている。
博士は、「宇宙には境界がなく、はじまりも終わりもない」という説を主張している。
積み上げてある本の中から、以前に買った、「斎藤史全歌集」(大和書房、1998年5刷)を引出して来て、初めより読み始めた。
斎藤史(さいとう・ふみ、1909年~2002年)の第1歌集は「魚歌」(1940年、ぐろりあ・そさえて刊、376首)。
彼女は初期、のちに「日本歌人」を創刊する、前川佐美雄らと歌を共にした。
「魚歌」の作品はモダニズムである。しかしよく知られているように、2・26事件に父が連座し、同級生・下級生が処刑された。
表現の自由は保障されておらず、父が陸軍将校だった立場もあり、韜晦的に詠うしかなかった。
以下に6首を引く。
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう
せめて苦悩の美しくあれ爪に染む煙草の脂(やに)を幾度ぬぐふ
岡に来て両腕に白い帆を張れば風はさかんな海賊のうた
野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす
暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
をりをりは老猫のごとくさらばふを人に見らゆな見たまふなかれ
(漢字の旧字を新字に替えた所があります)。
思潮社「広部英一全詩集」(2013年10月・刊)より、単行詩集未収録詩篇の、「笛」より「水浴」に至る、48編を読みおえる。
今年6月29日の記事(←リンクしてある)、「単行詩集未収録詩篇(1)」に継ぐ。
初出は、1962年~1971年である。
初出紙誌の「詩学」「木立ち」はわかるけれども、「架橋」「御本丸」「ねんきんふくい」などは、僕にはよくわからない。その解説まで求めるのは、無理というものだろう。
広部さんの単行詩集には収められなかったが、こうして全詩集に収められ、後世に残るだろう。
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