今月19日の記事、「届いた5冊」で紹介した内の1冊である。
2015年2月、詩人会議出版・刊。
恋坂さんは、「詩人会議」「福井詩人会議・水脈」「炎樹の会」「電通文芸同好会」「雪炎」「福井県詩人懇話会」会員。
全体は3部立てである。章分けはされていないが、目次では*印、本文では扉絵が付されている。
第1部では、奥様を亡くされた悲しみ、新しい奥様を得た喜び、別れて住むが優しいお孫さんたちが描かれる。
第2部では、若狭原発等、社会問題への思いを述べる。
第3部では、先の奥様が元気だった頃の、退職後に始めた喫茶店、飼い猫などが描かれている。
人生の思いの籠った詩集である。
Google Play ブックスより「青空文庫」発でタブレットにダウンロードし、岡本かの子の小説「河明り」を読みおえる。
同様にして読んだ彼女の小説は、1月31日の記事(←リンクしてある)で紹介した「母子叙情」に次ぎ、7作めである。
廻船問屋の娘が、店で働く青年(許婚者)に冷たくされるが、作者が一肌脱いで青年の立ち寄るシンガポールまで娘と出掛け、青年の内心を聞き取って、二人は無事結婚する、というストーリーである。
私小説に見せかけたフィクションとして、優れている。
彼女の肉感的なところ、アマチュアリズム(と受け取られる)が、彼女の作品への好悪感を分けるだろう。
蔵書1万冊とうそぶいた(今はその半分くらいか)僕が、タブレットに無料ダウンロードした本を読んでいるのだから、いかに本が流通していないか、判るものだ。
昨年12月20日の記事(←リンクしてある)、「整理術(1)」よりかなり日数を経たが、「〔書類・手帳・ノート〕の整理術」を読みおえる。
サンクチュアリ出版・刊、2010年3刷。
前回では、おもに机の上と中の、整理を書いた。
次はおもに手帳術、ノート術である。
手帳は30年くらい使っているので、おおまか判る。大きな目標を書込む事や、PDCA(plan→do→check→act→planのサイクル)を学んだ。
昨年12月1日の記事、「ノート術(2)」で、ケイタイ、詩稿ノート、手帳の廃止を謳ったが、ケイタイは止めたものの、詩稿ノート、手帳は用いている。
1つは、詩稿ノートに使える白紙(罫線あり)小型ノートが、何冊も残っていて、その方が心理的に書きやすいからである。
また手帳は、スケジュールとメモを見開きに書ける便利さが良い。スケジュールをタブレットに移すと書いたが、10インチもあるので、持ち運びにくい。スマホで管理する方法を模索中である。
歌稿も、スマホよりタブレットへ送る2重手間(削除を含めて)と有料を止め、スマホのメモに書き込み、パソコンのフォルダへ書き写している。
退職して用事は多くない筈だが、書き留める事は今も多い。
岩波書店「近藤芳美集」第1巻(2000年・刊)より、第2歌集「埃吹く街」を読みおえる。
今月14日の記事(←リンクしてある)、「吾ら兵なりし日に」(後に刊行された中間の歌集)に継ぐ。
原著は、1948年、草木社・刊。
幾つか挙げたい事がある。
彼は知識人として、懐疑を持ちながら従軍したのであって、ファナティックに突き進んだ農工民(大衆)とは違うという意識があり、大衆を戦後も信頼できなかったのだろう。
戦後も手に職があり(建築設計家)、従順な妻があり、(短歌を創作していた事を含め)恵まれた立場にあった。
また技術者(技術は、科学の現実への応用だろう)として、科学への(社会科学などではない)信頼があったのではないか。
右へも左へも突っ走る事なく、なお誠実に生きようとした人だったという印象だ。
以下に7首を引く。
墨入れて心落着く昼すぎは椅子も机も白く光りぬ
あたたかき霧立つ夕べ菜園の杭を打たむとたづさはり出づ
乗りこみし復員兵の一団はつつましくして上野に下りぬ
生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも
日本にはすでに用無き戦闘機低くすわりて草に埋るる
狭き貧しき国にて共に苦しまむ沁む思ひあり朝鮮の記事
誠実に生きむとしたる狭き四囲技術家なれば生きる道ありき
フリー素材サイト「Pixabay」より、白梅の1枚。
角川書店「増補 現代俳句大系」第9巻(1981年・刊)より、13番め、最後の句集、小林康治「四季貧窮」を読みおえる。
2月11日の記事(←リンクしてある)で紹介した、榎本冬一郎「鋳像」に継ぐ。
原著は、1953年、一橋書房・刊。
妻への献辞、石田波郷の序文、301句、石塚友二の跋文、後記を収める。
小林康治(こばやし・こうじ、1912年~1992年)は、従軍、病気・帰還、戦災・敗戦により一切を失った。
やや貧を衒っているようにも見えるが、戦後庶民の誰もが経験した事とされる。
以下に5句を引く。
ふりかむる大槻芽立つ月夜かな
野の城や日あたりながら草枯れぬ
旅の果葎をしぼる秋の風
父の棺に跿きゆく冬田恥多し
氷柱なめて生涯の貧まぬがれず
フリー素材サイト「Pixabay」より、白梅の1枚。
それぞれ読み、学びたい。
筑摩書房「萩原朔太郎全集」第13巻(1977年・刊、書簡集)より、今年1月10日の記事(←リンクしてある)で紹介した、前回・同(7)に続いて、昭和11年初め(525番)より没前の昭和17年(765番)まで、241通を読みおえる。これでこの書簡集を読みおえた事になる。
解説に拠ると、1974年、人文書院・刊の「萩原朔太郎全書簡集」より、128通増加し、そのうち83通は丸山薫宛てである。
この時期、萩原朔太郎は「四季」や「日本浪漫派」に関わっていた。
しかし昭和12年、丸山薫宛て書簡(619番)では、「南京陥落の詩といふわけです。…とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生れて始めての事。…慚悔の至りに耐えない。」と釈明している。
また没(昭和17年5月11日)近い、3月7日付け、上田静栄宛て書簡(759番)では、「…全体主義的に統制的にやられたり、…少々惨酷すぎると思ひませんか。個人が国家のために犠牲〔に〕されてはやりきれない。」と、はっきり述べている。
自由を尊んだ詩人の生涯である。
なお引用の中に、旧漢字を新漢字に替えたところがある。
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